八月末、在学中の彼女との対話から校長ポストの設置を思いついた懐かしい卒業生が久しぶりに訪ねてきてくれました。大学3年になっていた彼女から「私、小さい時から生きる価値が見い出せないんです。自分の意思とは関係なく生まれ、どうせ死ぬのにと思うと」と打ち明けられました。在学中、真面目で勉強もしっかりしていましたので意外に思うとともに、そのようなことをあえて考えたことがなかった私は少なからず戸惑いました。「まだ十分生きていないからわからないんだよ。これからだよ」と曖昧な返事しか返すことができず、納得させるに足る答を見出せぬまま悩んでいた先月、立ち寄った書店で『人生に生きる価値はない』(中島義道著 新潮文庫)というタイトルの本が目に留まりました。何かヒントが得られるかもしれないと思い購読したのがきっかけで、戦う哲学者の異名を持つ中島義道氏の本を続けて何冊か読むこととなりました。
中島氏は同調圧力が強く事なかれ主義に陥りやすい日本社会においては変わり者のエゴイストとみられるかもしれません。街中での余計なお世話ともとれる注意喚起のアナウンスや美観を訴える全く美しくない垂れ幕や旗指物に対する徹底的な抗議には「そこまでやるか」との感を抱きます。しかし、今朝私が乗った列車がプラットフォームを出る前後に「梅田方面の電車が出ます。お気を付けください」とのアナウンスが何度も何度も繰り返されるのを聞いた時、「ああ、中島氏ならきっと駅員に文句を言うだろうな」と思い、自然と笑みがこぼれました。またあまりにも形式的で儀礼的な行為や恩着せがましい言動を嫌う中島氏に共感できるところが多々あります。
『私の嫌いな10の言葉』では「相手の気持ちを考えろよ!」、「ひとりで生きてるんじゃないからな!」、「おまえのためを思って言ってるんだぞ!」等々が挙げられています。生徒指導現場でもよく使われる言葉で、私も時に口にすることがあります。しかし、これらの言葉は相手の置かれた状況に対する傾聴と共感がないまま発せられると、ただただ反感をもたらすだけに終わります。
自身が一時引きこもっていた経験のある中島氏は『働くことがイヤな人のための本』のなかで次のように述べています。
「引きこもりの者がみんなどうしようもない落後者であるわけではない。といって、彼らがみんな純粋で正しいわけでもない。私がとくに提言したいことは、怠惰な紋切り型の定式的な思考を警戒せよということだ。ものごとはひたすら細部をみなければならない」
生徒指導において家庭謹慎や停学処分を申し渡さねばならない場合があります。行為とその回数によって謹慎なのか停学なのかまたその期間についてもルールを設けています。しかし、大事なのは行為だけを見るのではなくその行為に至った原因、事情など細部をみての判断でなければ、本人の将来に結び付く教育的指導とはなりません。紋切り型にルールを当てはめようとする教員には生徒に対する愛情を感じません。そして生徒との信頼関係が構築できていないと指導は入りません。
また、中島氏は「人生は理不尽であるからこそ、そこにさまざまなドラマを見ることができる。目が鍛えられ、耳が鍛えられ、思考が鍛えられ、精神が鍛えられ体が鍛えられる」とも述べています。他人の悩みや苦しみは容易に理解できるものではありません。にもかかわらず我々はあまりにも浅薄なステレオタイプの叱咤激励の美辞麗句を並べたてていないでしょうか。「あることが真の言葉か否かは、その言葉の表面的な正しさによってではなく、その言葉を発するに至るその人が、いかに血の滲むような経験をしたかによって決まる」言い換えれば「その人がいかに勤勉に「からだで考える」ことを実践し続けてきたかで決まる」という中島氏の言葉は正鵠を得ています。
さて、中島氏は『人生に生きる価値はない』において、「理性を持った人間という生物がそもそもはじめから病的である。人間のみが精神病にかかる。人間のみが自殺する。理性は人間を健康にするのではなく、病気にする張本人ではないか?」と疑問を投げかけています。これは人間が「考える葦である」ことからくる必然だろうと思います。
また「人が生まれるのも死ぬのも、苦しむのも、楽しむのも、何の意味もないと小学生のころから思っていたのだが、ここ十年ほど、他人の顰蹙をも省みず、そもそも人生は生きるに値しないと、何をしてもどうせ死んでしまうこと、その限り不幸であること、それから眼を離して生きることが最も不幸であることなど、繰り返し書き散らしているうちに、奇妙に明るい気分が私の体内に育っていった」とも述べています。彼はこの感覚を「明るいニヒリズム」と呼んでいます。
件の悩める卒業生と同じ疑問を抱き続けた一人の哲学者の思索の過程が彼女への一つの答になるのではないかと思い、書名を紹介しておきました。読んで思索し諦めずに足掻いてみてくれればと思っています。