LINEを送るとき、句読点を付けるべきかどうか悩んだことはないでしょうか。私は文章を書くのだから句読点はいるだろうと思っていましたが、「マルハラ」になるらしいのです。『サラダ記念日』の歌人、俵万智さんの『生きる言葉』(新潮新書)を読んで知りました。
なんでもハラスメントになる時代ですが、中高年がLINEなどのSNSで送信する際に、文末に句点を付けることが威圧的に取られるらしいのです。我々中高年はあくまで文章だと思っているのですが、若者は限りなく話し言葉に近いと思っており、句点を付けないほうが言い切りにならず優しい感じがするそうなのです。そういえば若い人からのLINEには確かに句点はついていません。
短歌を詠むAIについての考察も面白いです。AIは作品をいっぱい作るが人間にとって作品は副産物であり、心を掘り当てることが創作の醍醐味だというのは納得です。これは絵画や小説にも当てはまります。生産性、効率の問題か自己探求か。そして人間をマシンと見てしまうからAIを脅威に思うというのもまた然り。
言葉には「意味」と「意図」があり、表面的な意味だけでなく、背景にある意図をくみ取れるのが人間のコミュニケーションだというのも納得。人間関係のもつれは意図をくみ取れないことから起きる場合が実に多いです。そして言葉はモノや人の心を捕らえるのに完璧ではないと。だから言葉を受け取るときに、誤差が小さくなるように心がけたり、ズレがあることを意識したり、背景を創造したりすることが必要で、言葉とはそういうものだと覚えておくべきだとも言います。生徒間のトラブルもまさにこの問題だろうと思います。そういう意味で言ったのではないにもかかわらずそういう意味にとられてしまったことのいかに多いことか。
最後に作者は母と口論になったことを例に挙げています。入院して余命いくばくもない父が大事にしていた囲碁の本を「もう本を読むことなんて絶対無理でしょう」と母が捨ててしまったそうです。酷いと憤慨して息子に電話したら、「おばあちゃんはおじいちゃんにかかわることを何かしたかったんじゃない。手を動かせば気も落ち着くし」と言われ、母に聞いてみると「本を整理していた時は昔のことを思い出して楽しかったわ」とのこと。息子の言うことが正解だったとわかった俵さんは、「額面通りに受け取って腹を立てるか、背景を感じ取って労わるかで、人と人との関係は変化してゆく。そういうことの積み重ねが、日々の暮らしなのだ」と述べています。先ずは、言葉は完璧ではないということを知ることからコミュニケーションの訓練が始まるのだと思います。







