教職員の夏休みが終わり、今日から出勤です。生徒は24日の始業式まであと1週間あります。休み期間中も、西淀川区PTA主催の高校説明会や私中高連主催の大阪私学展が開催されました。そして明日から3日間、中学生向けにコース体験が行われます。
天候不順が続いています。ほぼ毎日が雨で時折強く降り梅雨の末期を思わせます。気温が低く最高気温で30度に届かない日もあり、クーラーをつけて布団にくるまって寝ることがなく、久しぶりに快適な夜を過ごせました。しかし、各地でまた川の氾濫や土砂崩れが起き、気候変動の大きさを感じずにはおられません。先日、IPCC(国連気候変動に関する政府間パネル)は、人間の活動が温暖化に影響を与えているという報告書を公表しました。地球の自然、生体系を破壊しているのは人間ということです。二酸化炭素を排出しない代替エネルギーへの転換もさることながら、飽くなき経済成長追求路線を定常化社会に切り替えることが必要ではないかと思います。
休暇中、硬軟取り混ぜた読書に勤しみました。ジャレット・ダイアモンドの『危機と人類』(上・下)は、個人的危機と国家的危機の帰結に関わる要因を12項目に纏めて比較しています。かぶるところも多く、ともに過去に上手くいった変化と上手くいかなかった変化を知っておくことが将来への導きとなることが分かります。歴史に学ぶ価値がここにあります。そして、現在の世界人口75億人が50年以内に95億人に増えると言います。平均的アメリカ人は貧困国の平均的国民の約32倍のガソリンを使い、約32倍のプラスチックごみと二酸化炭素を出しながら豊かな生活を送っています。貧困国の人びとはこれに不満と憤りを募らせており、テロリストへの容認につながります。そして、これらの人びとが高消費のライフスタイルを求めると、世界の消費量は11倍になるそうです。これを現在の消費量に換算すると、世界人口が800億人になるということで、さすがにこれでは地球が持ちません。史上初めて、人類は地球規模の課題に直面しています。
闘う哲学者、中島義道氏の『孤独について』。他人に押し付けられたものが苦痛を与えるとき、我々はもろく崩れてしまうが、自分が選び取ったものにより苦痛を与えられたときは耐えることが出来ると言います。高校選びにおいて、親や先生の意見に抗しきれずしぶしぶ選択した生徒が、少しの気に入らぬ出来事で転退学をしてしまうのは、まさにこれです。また、起こったことを後悔することは多々ありますが、その運命は自分が選び取ったものと考えてみる。得てして好まぬ結果に関して、他人のせいにしてしまいがちですが、よくよく考えれば、自分がこの状況を作ることに加担してきたのが分かります。従って、何事も起こったことを肯定する、これがニーチェの「運命愛」の思想だそうです。私自身に当てはめてみると、これは理屈では理解できますが、自分の心の中での相当な葛藤を経なければ、なかなかこの心境に至ることが出来ないなあと思います。ここが人間の小ささなのでしょう。
私の好きな作家、池波正太郎氏の『その男』(一、二、三)は、実在の人物3人を混ぜ合わせて作られた架空の剣客の主人公が幕末から明治にかけての動乱の時代を生きる時代小説です。寺田屋事件や西南戦争など史実に基づくストーリー展開で、特に桐野利秋と西郷隆盛の人物描写は魅力的です。主人公に師匠が語ります。「日本人というのは白と黒の区別があっても、その間の色合いがない。白でなければ黒と決めつけずにはいられないのだが、人の世というものはそんなにはっきりと割り切れるものではない。おのれの立場だけをしゃにむに押し付けようとしても、そこには何の解決も生まれない」。この傾向は、SNSで自分の好みに合ったもの同士でのコミュニケーションによりさらに強まっています。『危機と人類』において、アメリカの二極化に触れた著者も「特に電子コミュニケーションにおいて、あらゆる種類の暴力的物言いが増えている」と指摘しています。今話題のYouTuberの問題発言にも言えることです。
昨日一日で読み終えた山本周五郎の『明和絵歴』。江戸中期、尊王攘夷論の先駆けとなった山県大弐の明和事件に題材をとった時代小説です。伊達騒動をテーマとした『樅木は残った』に比べると、著者の「大事なことは何をなしたかではなく、何をなそうとしたか」という思想を表すには少しく娯楽的に過ぎる作品だったように感じました。
コロナと大雨で家から出ることも少なく、ひたすら読書三昧でしたが、貴重な晴れ間に歩いて出掛けた時、近くの溝で一本の白百合が咲いているのが目に留まりました。石垣の間からすうっと立ち上がり見事な花を咲かせているその凛とした姿にしばし心奪われたものでした。