文部科学省が10年ぶりに「生徒指導提要」の改定に着手しており、3月末に試案が提示されています。特色は①子どもの権利の明記②校則見直しの促進③性の多様性への理解などです。校則は、最終的には校長が決める権限を有していますが、児童生徒の意見も取り入れ十分な議論を通じて定めることが求められています。
本校は、私が赴任してきた15年前は、基本から指導しなければならない状態でしたから、上意下達方式でやらざるを得ませんでした。そして、生徒の状態が変化してゆく中で、生徒から私に直接要望があったり、私が観ていてこれは変えてもいいと思ったりしたことを生徒指導部に下して検討してもらい変えてきました。今回の「第一ボタン留めろ」指導の撤廃もその一つです。
私は生徒との風通しを良くするために、校長室をオープンにし、校長ポストも設置しています。生徒の個人的な悩みや進路の相談に役立っている一方で、何でも「校長に言えばいい」という安直に考える生徒がいることも歪めません。もっとも、風通しを良くしていなければ、教員は保守的で一旦決めたルールを変えることには臆病になりがちですから、変えるべきものも変わらず、生徒の不満が鬱積していたことでしょう。
「校長先生が一番偉いのだから、校長先生が決めれば済む話じゃないですか」とは何度も聞かされる生徒のセリフですが、校長がすべてを決めていたのでは、生徒は何も考えなくなってしまいます。それでは自律と自立が達成できません。また自由をはき違えていそうな生徒もいなくはありませんが、今や大多数は良識が通じる生徒たちだと思います。生徒間で議論すれば、他者の意見も聞き、メリットとデメリットを比較衡量して考えるようになります。そして自分たちで決めたことは自分たちで守ろうという意識になるでしょう。校則という身近で関心のある課題を議論し解決する過程で、コミュニケーション能力や論理的思考が養われ、幅広いものの見方が出来るようになると思います。また、その結果、校則が変わるなら、それは貴重な成功体験となるでしょう。
これまでも校則について生徒間での議論を求めてきましたが、生徒会執行部と各クラスの代議員の連携がないという本校の構造的な問題から実を結んでいませんでした。今回の生徒指導提要の改正を受けて、この構造改革を生徒会部長に頼みました。
「公立は生徒指導が緩いが、私学は厳しいところがいい」という考え方は公立中学が荒れていた時代には通用したものですが、もう時代遅れの考え方だと思います。入学式や卒業式でだらしない格好でダラダラしているのはTPOを弁えておらず見苦しくよろしくありません。しかし、まるで軍隊のように一糸乱れぬ行動を良しとするのには抵抗があります。そこまでの必要性を感じないとともに、それは強制された結果で、その場だけではないのかと思えるからです。
東京の名門私学の一つ、武蔵中学校・高等学校の建学の精神に「自調自考」というのがあります。校則らしい校則もなく、学校行事への教師の関与も最小限です。こういうと、「自分で調べて自分で考えることが出来るのは名門校に集まる生徒だからだ」との声が聞こえてきそうです。確かにそうでしょう。しかし、名門校以外の生徒には出来ないと決めつけてしまうとすれば、出来る生徒はますます出来るようになり、出来ない生徒はいつまでたっても出来ないままに終わることとなり、教育は無力だということになります。教育者が教育の効果を否定してはおしまいじゃないでしょうか。
好文学園の改革第二ステージは生徒指導部門においても教務部門においても「考える」癖を付けさせる教育を行うことだと考えます。デジタル世代の生徒は直ぐに正解を求めようとします。正解を求めることではなく、考えることが生きる力なのだということを理解させることが肝要です。これには今まで以上に工夫と忍耐が必要ですが、今まで以上にやりがいのある仕事だと思います。