大隈重信は「人は摂生すれば125歳まで生きることができる」と人生125年説を唱えました。大隈が設立した東京専門学校(現在の早稲田大学)のシンボルとなっている大隈記念講堂の時計塔の高さは、この説にちなみ125尺(38m)となっています。1927年(昭和2年)に建設されたため尺貫法が使われているのは時代を感じます。
そして約100年後の今、日本では人間の寿命は250年以上をめざせるという老化防止薬や遺伝子治療の開発が始まっています。米国では大富豪が生涯の目標に「死の超越」を上げ、一日100錠を超えるサプリメントを飲むなど、年に200万ドルをつぎ込んで自らを実験台にして不老不死のプロジェクトを進めています。また、英国では「人類に10億年分の健康を」との目標を掲げたアプリがあり、AIを使って肉体年齢を推測するアルゴリズムも開発されています。(日経新聞2024.3.7『テクノ新世』より)
50歳で校長として本校に参りました私も17年の時を経て、当時の写真と見比べると、容姿が随分変わったと感じずにはおられません。当時、相談に乗った生徒から「校長先生がお父さんだったらよかったのに」と嬉しいことを言われたこともありました。最近では私の名前をもじって「かんじぃー校長先生、無理しないでゆっくりしてください。そして長生きしてください」と言われるようになりました。気遣ってくれるのは有難いのですが、いつまでも若い気分でいただけに、生徒にとって「お父さん」から「おじいちゃん」に変わっていることに改めて気づかされちょっと寂しい気分にもなりました。生徒の前では背筋を伸ばして笑顔で対応を心掛けていますが、やはり容姿の変化は如何ともしがたいです。ですから老化防止薬があればいいとは思いますが、さりとて250年生きたいとは思いません。
サミュエル・ウルマンの詩にあるように「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う」と思っています。とは言え、大統領選で、77歳と81歳が争う米国の現状からはかつての自由と希望の国アメリカの活力は見出せません。日本の政界の重鎮もそうですが、みんな「自分がいなければダメだ」と思っておられるのでしょうが、戦後の日本を見ればわかるように、上がいなくなっても下は下なりにしっかりやるのじゃないかと思います。世代交代を進めるためにも長すぎる寿命はいかがなものか、人生100年時代で十分なように思います。