日本大学アメリカンフットボール部の反則タックル事件が連日マスコミをにぎわしており、様々な論評が行われております。そこで、クラブ活動について日頃感じていることを少し述べてみたいと思います。
高校における部活動は学校教育の一環として人格の陶冶に役立つものと考えられています。模範となることを期待し、多くの学校で入学に際して推薦制度も整備されています。しかし、部活は真面目にやるが、授業には身が入らない生徒や部活の顧問の言うことは聴くが他の教員の話は聞かない生徒もいるのが実情ではないでしょうか。
やはり試合には勝たなければ達成感や満足感を得ることが出来ません。また、学校も部活の成績を大いに宣伝することで生徒募集に繋げたいという意向もあるでしょう。そこで、人格の陶冶は建前となり、技術を向上させ試合に勝つことが目的になってしまいます。
これに関して、大阪府立高校で生徒指導の経験が豊富で数校の校長を歴任された一色尚先生も、『教育プロ』(2018.3.20)のなかで次のように書いておられます。「余談になるが、スポーツする生徒は、そうでない生徒より、よくまじめで何事にも頑張るといわれるが、わたしは大いに疑問を持っている。確かに、自ら選んだ部活動には熱心であるが、その他は必ずしも当たっていないと思っている。(中略)本当にスポーツをすることがそのまま素晴らしい人間をつくるのなら、体育科の教員はすぐれた人間であり他教科の教員より優秀なはずである。(中略)私の知っている体育の教員にも、優れた人もいれば、そうでない人もいる。スポーツをしているからではなく、それはその人の心掛け次第であろう」と。
「人の心掛け」すなわち「人としてあるべき姿」を、自ら学べる生徒はそう多くはありません。ですから、部活動を教育の一環と位置付けるならば、技術のみではなくスポーツマンシップという言葉に象徴されるフェアプレー精神を通して「人としてあるべき姿」を教えることが顧問の大事な役割となります。
技術ばかりを教えているクラブは残念ながら生徒が育ちませんし、試合にも勝てません。まして負けたのを生徒のせいにするようでは顧問失格です。「勝てたのは生徒の努力の結果、負けたのは顧問の指導が至らなかったため」と自らの指導を顧みる謙虚さがなければ人は育てられません。しかし、なかなかそれを教え切ることが出来る優れた教員はそう多くはおりません。
体育会系、文化系を問わず、自分がその競技を好きでやっていた教員は顧問として部活動に熱が入ります。そのこと自体は大変結構なのですが、クラブの顧問である前に教師であることを忘れてもらっては困ります。多くの生徒は「楽しいから、好きだから」という純粋な気持ちから部活を選びます。生徒はそれで良いのですが、教師はそこで終わるのではなく一歩踏み込んで「競技を通して人としてどのようなあるべき姿を学ぶのか?」を考えさせる指導をするところが腕の見せどころだと思います。そうでなければ、学校教育の中で部活動を推奨する意味がありません。
日大の前監督、前コーチ、そして学長の会見をニュースで見ましたが、部活動の目的についての言及が全くなかったことを教育機関として誠に残念に思いました。