先日、校長ポストに今年春卒業した生徒からの手紙が入っていました。昨年11月14日の好文木「君の努力に乾杯!君の前途に乾杯!」で紹介した看護専門学校に進学した生徒からでした。
入学して2週間が経とうとする中、まだまだ慣れず、課題も多く、予習復習をしないと授業についていけず、毎日忙しく過ごしていると書いてありました。しかし、勉強が楽しく、毎日が充実しているとのこと。毎日、私のブログを見てから学校に行くのが日課になっているそうです。「好文に戻りたい」と思う時もあるようですが、私のブログを読んで、気合を入れていること。好文で学んだことが役に立っていること等、感謝の言葉が綴られていました。そして最後に、「また、校長先生のブログや好文を訪ねます。なので、ずっと元気で健康でいて下さい」とありました。
有難いことです。いつも思うのですが、「生徒を励ましながら、生徒から励まされている」自分は幸せな人間だと。
私の年齢になると、会社勤めをしている友人たちは大体が定年を迎えています。そして関連会社に出向して65歳ぐらいまで勤めるというのが一般的です。彼らから「君がうらやましいよ」とよく言われます。それは「人の役に立てる仕事ができて」という理由からです。
今から40年近く前、大学卒業を前に就職活動をしていた私たちは、商社だ、銀行だ、鉄鋼メーカーだと一流企業目指して会社訪問をしたものです。内定が決まった時は、みな得意顔でした。入社してしばらくしてから会うと、これまた自社自慢のオンパレードでした。
私も念願の総合商社に入れて有頂天でした。地下鉄銀座線、外苑前駅を降りて、新装なったばかりの22階建て本社ビルに吸い込まれる人の群れの中にいることが嬉しく、背広の胸の社章が誇らしかったものです。商社勤務は7年間で終わり、ファミリーカンパニー継承のため大阪に戻りました。
この7年間は仕事に対する基本を叩きこまれた実に有意義な7年間であり、感謝しています。しかし、それ以降のファミリーカンパニーでの20年を含めて、自分は人の役に立っていると実感できることは正直言ってあまりありませんでした。企業は商品やサービスの生産・提供を通じて社会に貢献しているということは理屈の上では理解できますが、実感がわきません。おそらく、私の友人たちもそうなのではないでしょうか。
これまた昨年の好文木12月12日付「「生きる価値」を考える」で紹介した大学3年の卒業生は、生きる意味を見出しかねて悩んでいました。今年になって彼女と手紙のやり取りをするようになりました。そして何通目かの手紙で、「多くの人に支えられていることに気づき、人の役に立つ仕事をしようと思い、教職をとることにしました」との彼女の決意を聴くことができとても嬉しく思っています。「先生はいつまでも先生のままでいて下さい」とも書いてありました。
昨今、部活動の問題もあり、学校の先生の仕事は長時間にわたりブラックだとの印象が強くなっています。社会全体が学校や教師におんぶにだっことなっていることは歪めません。教師にも家庭があり自由時間も必要です。そうでなければ本当に良い教育はできません。改善すべき点は直すべきだと考えます。
先生たちは慣れっこになっているのかもしれませんが、教師は人の役に立っていると実感できる人もうらやむ職業であるということは間違いありません。教師に憧れて教師になった人たちが、プライドをもって仕事に臨め、人の役に立っていることを実感でき、そこに幸福感、生きる価値を見い出せるそんな学校であり続けたいと思います。