日本の教育は暗記ばかりで思考力や問題解決能力を身に付けていないため国際競争力がないので、教育方法を改めなければならないというのが、簡単に言うと、教育再生会議を中心とした政府の高大接続教育改革の理由です。
一理あると思います。しかしながら、従来の日本の教育が全て間違いであったとは思えません。私自身、父祖の世代に比べると教養がないと思えることが多々あります。その一つが古典に対する知識の乏しさです。洋の東西を問わず、古典には生きる上での有益な知恵が詰まっています。原典に当たり読破することは大変ですが、故事成語の意味を知り暗記することも大事ではないかと思います。国権の最高機関である国会における昨今の議論を見るにつけ、改めてそう思うのです。
「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」、瓜畑で脱げた履を探していると、瓜を盗ろうとしているのではないかと疑われ、スモモの木の下で冠を被り直すために手を上げると、スモモを盗ろうとしていると疑われる。君子は疑われるような言動は未然に防がねばならないという教訓です。本人にその気があったか無かったかは関係なく、他者から見てそう見えた思えたことが問題なのです。従って、判断は本人ではなく他者が行うものです。
「忖度」という言葉の意味は人の気持ちを推し測るという本来は肯定的な意味です。「病床の父の気持ちを忖度して跡を継ぐことにした」など。しかし、昨年以来、おべっかを使うとか上司におもねるという否定的な意味が前面に出ています。
上司の言動を見聞きし、その考え方や気持ちを推し測り、意向に沿うように物事が進むように配慮する部下が気の利く有能な部下です。しかし、それはあくまで物事が合理的で公正な場合の話です。手心を加えて物事を曲げるとなると話は違ってきます。
影響力を持った人物が「李下に冠を正し、瓜田に履を納れる」と、周りは不合理な「忖度」をして、問題を生じさせてしまいます。その一義的責任が忖度した人にあることは間違いありませんが、忖度させてしまった人物にも当然責任があるはずです。だからこそ、上に立つ者への戒めとして、このような故事が伝えられているのです。
上に立つ人間は「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ」で、自らの誤りを詫び歪んだものを正す適切な処理を行わねばなりません。これを行わずあれこれと言い訳をすればそれは屁理屈となり、「過ちて改めざる、之を過ちと謂う」という事態に陥ります。
そしてこのような事態は、「過ちは好む所にあり」というように得意慢心によりもたらされます。故事の意味を紐解けば、誠に論理的に事態を分析し必要な対応が導き出せると思います。それが歴史に学ぶということでもあると思います。今、反面教師の事例が目の前で繰り広げられています。私たちは故事の生きた勉強が出来ることを喜ぶべきや否や、複雑な気持ちです