好文木(校長ブログ)
2019.08.28
求められる教師の資質

 猛暑が終わろうとしています。23日の二学期始業式から朝夕の暑さが少し和らいできましたが、今度は梅雨のような長雨です。長期予報では11月まで気温が高い状態が続くようです。涼しく空気の澄んだ秋の到来が待ち遠しいところです。拙宅の庭では近年5月ぐらいから11月ぐらいまでは蚊がいます。今年は8月上旬にツクツクボウシが鳴きだしたのには驚きました。最近は春と秋の時期がぐっと短くなってきており、季節まで冬と夏への二極化が進んでいるようです。
 私は就任以来一貫して校長室をオープンにして多くの生徒の悩みやクレームを聴いてきました。最初、目を三角にして文句を言いに来た生徒が卒業後も校長室を訪ねてきてくれます。何度も挫けそうになったにもかかわらず初志貫徹で希望の進路に進みその頑張りを報告しに帰ってきてくれる生徒もいます。卒業後も相談に乗っている生徒や保護者もいます。
 このようなことは多くの教員にとっては当たり前のことですが、教員免許を持たず企業から来た校長としては異例だと言われます。教育現場を知らなかったゆえに現場第一主義で生徒との対話を重視しました。私はいわゆる民間人校長のように民間企業での華々しい成果を引っ提げて学校改革に乗り込んできたわけではありません。企業経験で学んだことは大いにあり学校経営にも生かせていますが、企業勤務時代にことさら自慢できるほどの成果は上げてはおりません。世の中には生え抜き、民間出身の区別なく優れた教師や校長先生は沢山おられます。私もそのような多くの方々の教えを請いました。ただ、私は生徒に対する思いとぶれない姿勢だけは教員免許を持っている教師にも引けを取らないと自負しています。
 私はずうっと「傾聴と共感」の姿勢で生徒対応を心がけるようにと言い続けてきました。そのことを知らない教員はいません。しかし全員がその姿勢で臨めているかとなると残念ながら否と言わざるを得ません。「先生は私の言うことを聴いてくれない。私の気持ちを分かってくれない」という訴えがなくなりません。関係教員は「そんなことはありません。私は生徒の話をちゃんと聞いているし気持ちもわかっています」と言います。この隔たりはどこから生じるのでしょうか。
 それは、生徒が本当の気持ちを素直に話そうと思えるような雰囲気が作られておらず、生徒と当該教員の間に信頼関係が構築できていないからです。生徒は友人間のトラブルや家庭の問題など様々な原因で悩んだり苦しんだりしているのですが、問題解決を急ぐがあまり、正論を述べるだけで生徒の気持ちに寄り添うことが出来ていないのです。特殊な場合を除けば、時間をかけてしっかりと話を聴き、共感を示すことが出来れば生徒との信頼関係を築くことが出来ます。しかし信頼関係がないところではどんな話をしても生徒の心には響きませんし、そもそも心を開いてさえくれません。当初は友人関係のトラブルから始まった問題が、自分の気持ちを分かってくれない教員に対するストレスに変わることがあります。そしてそのことに気が付かない教員は、相変わらずの的外れなアプローチを続けるのです。これでは「額に汗して成果なし」を通り越して益々生徒は心を頑なに閉ざしてしまいます。
 生徒の話を聴くとき私は生徒の正面に対峙しては座りません。生徒と私の間の角度が90度、直角になる位置に座ります。そしてノートを出して、「なぜ今の状況にあるのか事情を教えてくれるかな?」と訊き始めます。
 生徒の話す内容をノートに書き留めていくと、「え、そのラインは誰からいつ来たの?」、「あっ、ちょっと待って、そのことは誰が誰に対して言ったの?」など疑問に思うことが出てくるのでさらに質問をします。そうすると生徒は「この先生は本気で聞こうとしてくれている」とわかるようで、詳しく説明をしてくれるので事情が呑み込めてきます。そして生徒の気持ちが理解できるようになります。時には「あ、そこは私が悪かったんですが」などと生徒が自分を客観視できる場面があります。その時には「そうだね。そこは君の反省点だね。どうすべきだったろうか?」と聞き返すと生産的な話ができます。「ああすべきだ。こうすべきだ」と一方的に説教のシャワーを浴びせるのではなく、生徒が話しているうちに生徒自身で気づくように持っていければ教育的効果が高まります。正解を教えるのではなく、自分で考えさせることが大事です。
 ノートをとらないで話しを聞くと、ついつい黙っていることが出来ず「いや、それは違うな」とか「こうしてみたら」等と話に割り込んで自分の意見を言いたくなります。そうすると生徒は「この先生は私の話を聴く気がないんだ」と思ってしまいます。この状態では何を話そうがきちんとした答えは返ってきませんし、まして教育的効果など望めるものではありません。「しゃべりたいじっと我慢の聴き上手」を心がけなければコミュニケーションは成立しないのです。ノートをとりながら聴くことでそれが可能となります。
 今まで生徒の話を聴いた最長時間は4時間です。1時間や2時間はざらです。無理に拘束して聞き出しているわけではありません。生徒が自ら校長室に相談に来て帰らないのです。それだけ不満や苦しみが溜まっていたわけです。
 教員はしゃべるのが仕事だと思っている人が多く、しゃべるのは得意(ただ内容がない場合が多い)ですが、聴くのが苦手です。本当に聴き上手な人は少ないです。私は数少ないその聴き上手な教員から生徒対応の要諦を学びました。人間いくつになっても学ぶ姿勢は大事です。校長が学んでいるのに何故他の教員は学ばないのか不思議に思います。なまじ長年教師をやっていると根拠なき自信で謙虚さが失われるのかもしれません。
 私は女子は問題を解決することもさることながら、苦しい辛いなどの気持ちを理解してほしいと共感を求める傾向が強いように思います。ですから「傾聴と共感」の姿勢が大事なのです。もっと早く気が付いて私が話を聴いていればと後悔することもあります。教員の通り一遍の対応に「そこに愛はあるんか?!」と問い正すことも度々です。生徒に対する愛情が持てないなら教師はやめて転職したほうが双方にとって幸せだと思います。
 AIの進化は教育にも変革を促しています。一斉授業から個別指導へAIは有効なツールになり得ると思います。単に50分一方的に授業する教師はもういらなくなります。
 イギリスの教育哲学者ウイリアム・アーサー・ワードは「凡庸な教師はただしゃべる。少しましな教師は理解させようと努める。優れた教師は自らやって見せる。本当に優れた教師は生徒の心に火をつける」と述べています。
 本校は行動基準を「それは本当に生徒のためになるか」に定めています。ただしゃべるだけの凡庸な教師は必要ありません。生徒の心に火を点けている優秀な先生には、生徒に対する愛情の深さを感じます。そしてそれが生徒にも伝わっていることは生徒の日頃の言動や彼女たちが挙げる様々な成果に現れています。
 教師になって間がない若い先生にとっては生徒指導はなかなか骨の折れる仕事だと思います。人生経験が浅いので気の利いた話もできません。しかし若いなりに「傾聴と共感」はできるはずです。「想像力を働かせ、相手の立場に立って考えてみよ」と指導しています。
 しかし、何十年も教師をやっている人に新人同様の指導は失礼だと思いますが、生徒のためには嫌なことも言わねばなりません。そんな時「未熟者なのでよろしく」などといわれると、大臣就任あいさつで「これからしっかり勉強させてもらいます」とインタビューに答える国会議員を見るようで、「いまさら何を」と思ってしまいます。「鉄は熱いうちに打て」とは至言だと思います。やっぱり教育は大切だと痛感します。

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