昨夕、拙宅の桜の木でツクツクボウシが鳴き出しました。夏休みも終わり2学期が始まりました。1学期の終業式に休み中は読書に勤しむ時間をとるように話をしていたので、今日の始業式で「休み中一冊でも本を読んだ人は手を挙げて」と訊いたところ、数十人の手が挙がりました。全校生徒750人からすれば少数です。そこで、私の本の読み方を少し紹介しました。あとがきを読むことによって、本文の内容を要約できること、あとがきの書き手が印象に残った箇所とその解釈にふれることで自分が思っていなかった新たな視点に気が付くこと、作家の他の小説とどうつながるかがわかることなどから、その作家への興味が深まることを話しました。参考にして読書する生徒が少しでも増えることを望みます。
今朝の日経新聞教育欄に「受験考「面倒見」の問題」と題した塾の先生の記事が載っていました。面倒見の良さが過剰になり成長を妨げているのではないかとの意見で、日ごろ私が感じていることと同じです。大阪の私学は「面倒見の良さ」を少子化による公立との差別化を図る合言葉にしてきました。しかし、受験勉強のフォローにせよ生活上の問題にせよ丁寧さは大事なのですが、行き過ぎると「過ぎたるは及ばざるがごとし」となり、生徒の自立を妨げかねません。
この塾の卒業生で今年私立高校に入った生徒は「面倒見が良いと聞いていたが、管理教育になっており、言われた通りやっていたら大学は受かるだろうが、課題をやるのが精いっぱいで」とこぼしていたそうです。予備校や塾に行かなくても大丈夫ということで、0時間から8時間授業、そのうえ補習もやる学校もありますから、自習時間をとるのも容易ではありません。やらされ感があっても自主的に勉強が出来ねば達成感が生まれません。
友人関係のもめごとも、本来は当人同士で解決すべき問題です。しかし解決をしようという意欲より、煩わしさから逃避しようという気持ちが勝る生徒が多いように感じます。私はもめごとが起きた時、相談に来てくれると、勘所をアドヴァイスして、それをもって生徒が自主的にトラブル解決に一歩踏み出すように促します。このアドヴァイスを素直に受け入れて実践し解決に至れば、「やればできる」という自信がつきます。
企業が就職を希望する学生に求める能力のトップはコミュニケーション能力です。これは問題解決能力でもあります。人生には様々な困難が待ち受けています。それを自分の力で乗り越えて行けるようにすることが教育の目的だと思います。
本当の「面倒見の良さ」とは甘やかすことではありません。ましてや生徒をお客様扱いすることではありません。生徒を管理するものでもありません。自立を促すものでなければなりません。本校の職員室に掲げた行動基準「それは本当に生徒のためになるか」はこのことを意味しています。