好文木(校長ブログ)
2023.06.16
「泣かないで」を鑑賞して

 先日、オリックス劇場にて、音楽座ミュージカル公演「泣かないで」を鑑賞してきました。本校の芸術鑑賞会の候補として考えており、下見を兼ねてまいりました。
 『泣かないで』は遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』が原作です。最近、遠藤周作の作品を10冊ほど読んだところでしたが、これはまだだったので、早速購入し週末に読んでから観劇に臨みました。
 戦後間もない昭和24年、退屈を紛らわすために雑誌の文通欄に手紙を出した大学生の吉岡努と本気でそれに応えた町工場の女子工員、森田ミツとの一夜限りのデートから物語は始まります。吉岡は遊びで相手をしたミツが本気になるのをうっとおしく思います。ミツは何とも言えぬお人好しで、自分の生い立ちや環境も決してよいとは言えないにもかかわらず、困っている人やかわいそうな人にはすぐに同情し、何とかしてあげようと自分の不利益も考えず誠意を尽くすタイプの女性です。声のかからぬ努との次のデートを楽しみにし、その時着るセーターを買うためにこつこつ夜勤をしてお金を貯めます。セーターを買いに行く途中で、生活費に困っている上司の妻に遭遇し、赤ん坊の泣き声に心を動かされ、稼いだお金を差し出してしまいます。また上司の使い込みを庇い自分がやったと言って会社を首になります。一方の努は大学を卒業し就職し、社長の姪と恋に落ち結婚します。そのころミツは以前から気になっていた腕のあざを病院で診てもらい、当時は不治の病と思われていたハンセン病の宣告を受け、紹介された御殿場のハンセン病専門病院に入ります。絶望の淵に突き落とされたミツでしたが、病院での生活に慣れた頃、それが誤診だとわかります。喜び勇んで病院を後にしたミツですが、駅の改札口からまた引き返してきます。そして病院で患者のために修道女らとともに働きます。しかし、患者が育てた卵を街に売りに行った時、トラック事故に遭い亡くなります。努は年賀状を書きながらミツのことを思い出し、余った年賀状を病院に出します。幸せな新婚生活の中でも、努の心にはミツのことが深く沈殿していました。1月も終わり、修道女から努に手紙が来ます。その手紙で初めてミツのその後と死を知ります。昏睡状態の中、最後に意識が戻り言った言葉「さいなら、吉岡さん」これを知った努は、ミツをもてあそんだことを、若い男ならだれでもやることだと自分に言い聞かせようとしますが、深い後悔に苛まれます。「ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残すということなのか。寂しさはその痕跡からくるのだろうか。そしてまた、もし、この修道女が信じている、神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話しかけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう」。
 この小説は、苦しみへの共感と愛が一つのテーマとなっています。修道女の次の言葉が印象に残ります。「愛徳とは、一時のみじめな者に対する感傷や憐憫ではなく、忍耐と努力の行為ですが、ミッちゃんには私たちのように、こうした努力や忍耐を必要としないほど、苦しむ人々にすぐ自分を合わせられるのでした」。そして「もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人にと」。ミツは気の毒な人々に素直に共感を示すことができ、同伴しようとします。病院で小児患者が亡くなったとき「何も悪いことをしていないのになぜ神様はこんな仕打ちをするのか、神様なんか信じない」と叫ぶミツ。ここに作家は悲しみの連鎖につながり永遠の同伴者たろうとするキリストの姿をダブらせています。
 他人の悲しみと自分の悲しみを繋ぎ、悲しむ人に寄り添おうとする共感力は教師にとっても必要なものです。臨床心理学者のカール・ロジャーズは、共感的に生きるとは、自己没入的理解、すなわち、しばらくの間、自分の視点や価値観を脇において偏見を持たずに他者の世界に入り込むことだと言っており、修道女の言葉にあるように、努力と忍耐が要ります。
 今回の公演は原作を忠実に舞台化していました。長編小説を2時間で演じるのは容易くはありませんが、主題をしっかりと押さえ実に見ごたえのある舞台に仕上がっていました。考えさせられる良い作品でした。

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