「私が、今の政治家諸君を見て一番痛感するのは、『自分』が欠けているという点である。『自分』とは自らの信念だ。政治の堕落と言われている者の大部分は、ここに起因する」これは1967年晩年の石橋湛山がつづった「政治家にのぞむ」にある言葉です。
石破首相に関して、自民党総裁選の前と後で言うことががらりと変わり変節だとの批判が出ています。党内基盤の弱い総理総裁ですから、ことを前に進めるのに妥協が必要なのだろうと思いますが、国民にその言い訳は通じません。
石橋湛山は1956年72歳で自由民主党党大会で岸信介を破り総裁に選任され、総理大臣に就任しました。しかし、翌年1月急性肺炎で倒れます。もう少し様子を見てもよいのではないかとの周りからの進言を退け、自らの政治良心に従うとして2月に退陣します。この出処進退の潔さは今に語り継がれています。
私が湛山を知ったのは、大学時代、小島直記氏の『異端の言説 石橋湛山』を読んだ時です。石橋内閣はわずか2カ月で終わったので、日本史の教科書ではほとんど出てきません。しかし、湛山の足跡を辿れば、戦前戦後を通して首尾一貫した考え方に感銘を受けます。
湛山思想を代表するのは「小日本主義」と言われるものです。これは「日本は4つの島で十分やっていける」という考え方です。当時、大正の終わりから昭和にかけて日本は欧米の植民地政策に後れを取るまじと朝鮮、台湾、満州などへ手を伸ばしていました。湛山は植民地政策をやめれば戦争は起こらないし、侵略もされないと説き、軍備拡張より技術革新により経済力を高め世界との貿易によって国を富ますことが肝要と唱えました。この主張を国を挙げての軍国主義の時代に、「東洋経済新報」の社説を中心に堂々と論陣を張り続けた気概と勇気に感服します。
大手新聞はこぞって政府を支持し、多くの著名な作家や画家も「大日本主義の幻想」に惑わされ戦争に協力する姿勢をみせていく時代です。湛山は筋金入りの自由主義者であり経済立国主義者でした。戦後は吉田内閣で大蔵大臣を務めGHQの要求する予算にも聖域とせず厳しく査定し、「マッカーサーに盾つく唯一の人間だといわれた」と、元衆議院議員の田中秀征氏は『石橋湛山を語る』(集英社新書)の中で書いています。
大学卒業後入社した伊藤忠には、太平洋戦争時、関東軍参謀を務めた瀬島龍三氏が相談役でおられ、お話を聴く機会がありました。その時、「日本は世界が平和でなければやっていけない。平和の中で貿易によって国が豊かになる」と述べられたことを覚えています。戦前は湛山と対極の立場にあった人でしたが、実際に戦争を当事者として経験し辛酸をなめた人の口から出た言葉だけに心に沁みるものがありました。
アメリカ大統領選挙でトランプ氏が第47代大統領として返り咲きました。ロシア、中国、北朝鮮と専制主義的リーダーが多い世界の中で日本がどういう立場をとるべきか極めて難しい選択を迫られると思います。戦争の惨禍を経験していない戦後生まれの政治家はとかく勇ましい発言をする傾向があり、それが民衆受けするのですが、物事はそう単純ではありません。歴史と先人の知恵に学ぶことが大事だと思います。