始業式で年頭所感を述べました。2025年が昭和100年、戦後80年、阪神淡路大震災から30年とそれぞれ節目に当たることから、世界情勢への言及をいたしました。その中で、「世界は今やジャイアンばかりとなり、のび太にとってのドラえもんはいないから、国も個人も主体的に考え行動し、外交や人間関係のセンスを磨かねばならないと思う」と話しました。世の中は全てが〇×、白黒をはっきりつけられるものではありません。センスを磨き、中間の良い落としどころを見出すことが大切です。
今朝の日経のDeep Insightには「エモクラシ―に悩む世界」と題した記事が載っていました。トランプ氏のアメリカ大統領再登板、ロシアや中国における権威主義の台頭、民主主義陣営における与党の大敗とポピュリズムの加速など、全体主義に勝利したはずの民主主義が悩んでいる状況を伝えています。エモクラシ―とはデモクラシーに対する造語で、感情が理性に勝ることを意味します。(2022年10月7日付の好文木「エモクラシ―VSなぜ?」参照)
その中で、上智大学の佐藤卓己教授の「輿論(公的意見)を尊重するデモクラシーより、世論(大衆感情)に迎合するポピュリズムが世界的に勝りつつある」という意見を紹介し、筆者は「佐藤氏が唱えるのは善悪や優劣の判断を急がず、曖昧さに耐える「ネガティブリテラシー」である」と言っています。また「SNSの影響が民意を方向づける政党やメディアなどのガイド機能を低下させ、理性で制御しにくい政治になってきた」との吉田徹・同志社大学教授の意見も紹介されています。
私はこの記事を読んで、まさに我が意を得た思いがしました。オールドメディアにせよSNSにせよほとんどの情報は伝聞で自ら直接その場に行き人に会って確認したものではありません。われわれは人から与えられた情報に基づき判断せねばなりません。従って、できるだけ多くのそして一方に偏らない情報を入手し、じっくり考えて判断することが肝要です。時には判断を急がず曖昧さに耐えることも必要です。しかしこれは結構難しいのではないでしょうか。戦前の日本の政治は、軍部と政党の強硬派と英米協調派とのせめぎ合いの中で進行しました。そしてその均衡が破れて開戦に踏み切った時、多くの知識人さえも「これですっきりした」と思ったぐらいモヤモヤ感に耐えかねていたのです。
憲法9条と自衛隊の海外派遣を巡る一連の議論において、実際に戦争の惨禍を経験している政治家は総じて慎重で、戦後生まれの政治家は威勢がいいなと感じました。終戦直後とは世界情勢は変わっているのですから、憲法は絶対変えないというのも頑迷固陋のそしりを免れません。ドイツやアメリカは何度も修正をしています。しかしまた、過去の失敗に学び冷静に判断することも必要です。憲法9条の規定は現状とは明らかに矛盾が生じているのですが、よくよく考えると、解釈変更でやり過ごしてきたのはある意味ネガティブリテラシーの発揮だったのかと思います。 極右や極左政党が台頭していない日本はまだ今のところバランスがとれていると思います。しかし、SNSはエモクラシ―を助長するリスクが高く、いつポピュリズムに陥り道を誤らないとも限りません。学校教育において主体性とセンスを磨く訓練をしっかりしておくことが極めて重要になったと改めて痛感します。